山口小学校の歴史

【明治】

1872(明治5)年
村内の寺子屋28軒が廃止

1874(M7)年11月
加津佐村六反田名山口に「下等山口小学校」が創立
※下等小学校:6~9歳・上等小学校:10~13歳
下等小学校入学時は八級で、半年毎に進級。学力により「特別進級」「落第」が行われた。

1876(M9)年1月
◇生徒数:54名(男 48名。女 6名)

1884(M17)年7月
校舎改築

1885(M18)年3月
「中等水月小学校山口分校」と改称

1886(M19)年9月
学校令施行により、山口分校と宮原分校と統合され、  宮原名の谷屋敷に移転。「簡易宮原小学校」と改称。

1890(M23)年10月
教育ニ関スル勅語が発布

1890(M23)年11月
「尋常水月小学校山口分校」となり六反田名山口に分設

1893(M26)年3月
常水月小学校から分離し「山口尋常小学校」と改称、(修業年限4年)として独立。
◇生徒数:92名 

1899(M32)年4月
2学級編制(1・2年複式、3・4年複式)

1903(M36)年3月
新校舎に移転

1908(M41)年4月
義務教育期間が延長。3学級編制(1・2年複式、3・4年複式、5・6年複式)

【大正】 

1913(大正2)年
当時の山口尋常小学校校区は、上登龍、後登龍、中尾、山口、 鍛冶屋敷、富士山、蓮岳、上六田

1920(T9)年10月
日本初の国勢調査実施に際し、小学生はその趣旨を宣伝啓蒙するため、歌を歌いながら町を旗行列する。

1923(T12)年9月
校庭が上下二段に分かれており運動に不便なため、六反田名の労働奉仕により現在の形に整備。

 

【昭和】

1929(昭和4)年4月
蓮岳が本校区域より分離

1941(S16)年4月
「加津佐町山口国民学校」と改称

1947(S22)年4月
学制改革にて「加津佐町立山口小学校」と改称

1949(S24)年6月
4学級編制(1・2年と3・4年:複式、5年と6年:単式) 

1950(S25)年3月
5学級編制

1950(S25)年8月
二教室を増築。9月より全学年単式学級を開始。

1955(S30)年5月
旧校舎腐敗のため移転改築が決定。建設委員会を組織。

1955(S30)年9月
六反田名の労働奉仕にて2,000坪を整地』※昭和31年5月に完了

1956(S31)年8月
新校舎竣工(同年5月着工。186坪)

1956(S31)年09月
新校舎(現校舎)に移転

1956(S31)年10月
校舎移転新築落成記念事業として、名内外より寄付を募集し(総額110万円)、施設や教育設備の充実を計る

1957(S32)年3月
校歌を制定(作詞:吉富 新一氏、作曲:伊藤 栄一氏)
 ※両氏は当校校歌の他にも「茂木中学校」「桜ヶ丘幼稚園」「佐世保市立吉井南小学校」「雲仙市立神代小学校」を担当。

1962(S37)年10月
特別教室(理科室17.5坪・図書室14坪)の新設工事を着工し、11月に竣工。
新築総工費150万円。内50万円は地域が負担する。

1963(S38)年9月
学校給食(脱脂粉乳)」を開始

1970(S45)年
町内各学校の教職員による「宿直勤務が禁止」

1978(S53)年
太田和利氏が図書購入資金を寄付。寄付は数年続き図書室内に「太田文庫」が設置される。 

1979(S54)年4月
加津佐東小学校から運搬する形態で「学校給食」を開始

1981(S56)年3月
前年9月に着工した「体育館」が完成(総工費8,234万円)

1981(S56)年4月
4学級編制(1年:単式、2・3年と4・5年:複式、6年:単式)

1982(S57)年9月
労働奉仕で「土俵」が完成

【平成】

1997(平成9)年11月
「美しい故郷づくり花壇コンクール優秀賞」受賞

2002(H14)年11月
PTA活動において「文部科学大臣賞」を受賞

2003(H15)年4月
完全複式学級になり3クラスへ

2006(H18)年3月
旧八町の対等合併により南島原市となり、「南島原市立山口小学校」に改称

2006(H18)年4月
3学級編制(完全複式学級)となる

2014(H26)年3月21日
閉校式典を実施(全児童11名、内2名が卒業生)

2014(H26)年3月31日
閉校(在校生は新設の加津佐小学校へ通学に)

 

 

 

六反田名(南島原市加津佐戊)の歴史

【六反田名】上登龍・後登龍・鍛冶屋敷・山口・蓮岳の5自治会
【山口小学校区】上登龍・後登龍・鍛冶屋敷・山口の4自治会

 島原半島の興り

■島原半島の興り
約430万年前
☆口之津町早崎の海底火山のが噴火し、玄武岩の地層が隆起。≪島原半島≫が誕生する。
※150万年前には女島・岩戸山、130万年前に国崎・有喜火山、115万年前に鳳上岳・上原、70万年前に塔ノ坂火山と海底火山が噴火し、現在の島原半島を形成。
 
紀元前4世紀ごろ
○北有馬に原山支石墓群(原山ドルメン)がつくられる。
この遺跡の副葬品より『狩猟採集』が中心の生活に、伝来した『稲作』が取り込まれていった事が考えられる。
 ※ドルメン・・・フランス/ブルターニュ地域の言葉で、ドルは「卓」、 メンは「石」を表す。
 
7世紀末までに
☆令制国(りょうせいこく)成立により、≪火国・肥国≫(ひのくに)が分割。
≪火国≫
→ ≪肥前国≫(ひぜんのくに。佐賀・長崎県)
→ ≪肥後国≫(ひごのくに。熊本県)

○地域の豪族が統治する共同体から、中央集権国家に移行する。

9世紀ごろ
☆平安時代中期、武士が「名」と呼ばれる村落を支配する。
ex, 在名(ざいみょう):六反田の太郎

 有馬氏の台頭

【鎌倉時代】
1215(建保3)年
藤原純友の子孫「藤原経澄」が高来郡(たかき)の地頭職として来る。のちに日野江城を築き、有馬氏を称する。

1274(文永11)年
○有馬氏、文永の役<元寇>に参軍

1281(弘安4)年
○有馬氏、弘安の役<元寇>に参軍

【室町時代】
1353(正平8)年
○「大智禅師」が、「有馬澄世」の招きにより”賀津佐”へ 赴く。
※大智禅師(だいちぜんじ。1290~1366。曹洞宗の開祖、道元禅師の法灯を継ぐ、 第六代の祖と伝えられる名僧。現 熊本県宇城市不知火町の生まれ)

1358(正平13)年
○「大智禅師」が「有馬左衛門尉直澄」の寄進によって『水月山 円通寺』を開山(水月天辺)。最大期は約500名の僧が修行を行う
※大智譲渡状には[賀津佐村 字山口・字中原]と記載あり。

1359(正平14)年
足利義詮(よしあきら)が、加津佐村の土地を多比良村四面社に寄進。

○上登龍(かみとうりゅう)に『温泉四面宮』が鎮座
 ※神逗留(長い期間滞在した所)が語源との説もあり。
 ※場所の変遷。上登龍(県道209号線沿い。南有馬町との境近く。鳳上岳側) →愛宕町(忠霊塔付近。元四面)→加津佐支所付近→現在の場所
 ※四面宮:一身(九州)四面(筑紫・豊・肥・熊曽)の九州の守神 

1366(正平21)年
 ○旧12月10日「大智禅師」入寂(77)。その遺骨は四分され、生前開創の四寺に葬られ、その塔を大梅と称した。(現1367年1月10日)

1496(明応5)年
○「有馬貴純」が原城を竣工(日野江城の出城)

 

【安土桃山時代】

1578(天正6)年
○「有馬晴信」が「龍造寺隆信」に降る

1579(天正7)年
○「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ巡察師」が口之津港に来航。 口之津で全国宣教師会議を開き、全国より59名の宣教師が集まる。

1579(天正7)年
○「晴信」によって水月山円通寺が破壊される

1580(天正8)年
○「晴信」は当初はキリシタンを迫害していたが、洗礼を受けて(洗礼名:ドン・プロタジオ)、それ以降は熱心なキリシタンになる。『円通寺』が廃寺。

1582(天正10)年
○天正遣欧少年使節、長崎を出港

○キリシタン数名と口之津教会の少年たち多数を引率し、『岩戸穴観音』を襲撃。大小種々多数の仏像を破壊。破壊された仏像は、口之津の修院で薪として利用される。

 1584(天正12)年
○「龍造寺隆信」が反旗を翻した「有馬晴信」を征伐しようと進軍。「晴信」は「島津家久」に援軍を願い、『沖田畷(おきたなわて)の戦い』で「隆信」を討ち取る。
※有馬 3,000+島津 3,000 VS 龍造寺30,000 (諸説あり)

1585(天正13)年
○宣教から一線を離れた「ルイス・フロイス」が加津佐司祭館で、『日欧文化比較論』の執筆を始める。
※著書『日本史』の中には、[CAZUSA、CANZUSA] と記載がある。

1587(天正15)年
○「有馬晴信」は「豊臣秀吉」の九州征伐において、島津勢と縁を切り、豊臣勢に加勢。その結果、九州諸大名の知行割にて所領安堵される。
※神代を除く島原半島と長崎浦上領の約四万石。

1590(天正18)年
○有家から『セミナリヨ・コレジヨ』が加津佐に移る。当時の日本における唯一のキリシタン学府の地で、宣教師40名、生徒90名が在籍。
・コレジヨ:豊後府内→千々石→有家→加津佐→天草→長崎
・セミナリヨ:有馬→安土(本能寺の変後に破壊)→北有馬(八良尾)→ 加津佐→八良尾→有家→長崎

ヴァリニャーノが加津佐で全国宗教会議を開く

1591(天正19)年
 ○天正遣欧少年使節がヨーロッパから持ち帰った『活版印刷機』加津佐コレジヨに運ばれ、日本初の活版印刷、『サントスの御作業の 内抜書(ごさぎょうのうちぬきがき)』が印刷される。
※日本語をローマ字で記した2巻で構成され、1巻700ページを越す大冊。

1592(天正20)年
○コレジオは天草、セミナリヨは八良尾(北有馬町)に移動する。

○「有馬晴信」が一番隊として、文禄の役に参軍

1600(慶長5)年
関ヶ原の戦いにおいて西軍惨敗の報を聞き、「有馬晴信」が東軍に寝返る。功績より旧領を安堵、肥前日野江藩初代藩主となる。

 キリスト教の弾圧

 【江戸時代】

1612(慶長17)年
○幕閣「本多正純」の与力でキリシタンの「岡本大八」が、「有馬晴信」を偽って収賄。「大八」は市中引き回しのうえ火刑、晴信も甲斐流罪の後に死罪に処される。両名がキリシタンだったので、江戸幕府の禁教政策のきっかけとなる。

1614(慶長19)年
○晴信の嫡男で領内のキリシタンを弾圧した「有馬直純」が日向延岡に転封となる。家臣の中には随行を望まず、領内に居残るものが相当数いた。

 

【島原・天草一揆】

1616(元和2)年
○大和五条藩主の「松倉重政」が肥前日野江藩主となる

1618(元和4)年
日野江城が手狭になったので、島原城の築城を開始。併せて、 原城を破壊する。

1630(寛永7)年
○「重政」病死。嫡男「松倉勝家」があとを継ぐも、遊楽にふけり、重税を課す。
※建築税(住居新築)、炉を設ければ炉税、その他にも窓税、棚税、畳税、頭税(出産)、穴税(埋葬)など様々な事柄に税を課し、農民を苦しめる。

1634(寛永11)年
○天候不良により大飢饉が発生。餓死者が多数でて、押入強盗などが横行する。そのような状況下でも租税滞納者には拷問を行ったため、領主と農民が一触即発の状況になる。

○口之津村の百姓 与三右衛門の妻(妊娠中)を年貢未進のため捕らえ、水責めにして殺害される。その非道なやり方に農民が代官屋敷を強襲。

1637(寛永14)年
○旧06月15日 口之津村民集会

○旧10月10日 有家で庄屋 甚右衛門が決起

○旧10月14日 加津佐の寿庵(じゅわん)、島原や天草の各村々庄屋に 廻文を送付。

○旧10月25日 有馬村のキリシタンが中心となり代官所を強襲。代官・林兵左衛門を殺害。この流れが大きくなり、『島原の乱(島原・天草一揆)』に発展する。

○旧10月26日 キリシタン3,000名が島原城を攻めるも落城せず

○旧12月01日 原城修築工事が始まる。キリシタン500名が口之津の松倉屋敷を襲う。米五千表俵、鉄砲530挺、弾薬千箱を奪う。

○旧12月03日 天草四郎時貞、原城に入る

○幕府は「板倉重昌」を総大将とするも、九州大名の統制がとれず戦死。老中・「松平信綱」(知恵伊豆)が二代目総大将となる。

1638(寛永15)年
○旧02月27日 豊前中津藩主「小笠原長次」の後見であった「宮本武蔵」が交戦。幕府側諸将にとって、大きな心の支えとなった。

 ○旧02月28日 88日間という壮絶な籠城戦の末、原城が陥落した。<幕府軍:125,000と一揆軍:37,000[非戦闘員を含む・諸説あり]>
 加津佐住民(約1,500~1,600名)のほとんどが討ち死。
 「松倉勝家」は反乱惹起の責任を問われ斬首(江戸時代に大名が切腹ではなく、斬首された唯一の事例) 

 ※加津佐村・口之津村・串山村・有馬村・有家村・堂崎村・布津(ふつ)村のほとんどの住民が参加し、殺されたため、連綿と続いた地域の風習が断絶される

 移住者による再興

【島原・天草一揆以後】

1638(寛永15)年
○遠江浜松の「高力忠房」が肥前島原藩初代藩主にとなる

1642(寛永19)年
 ○人がいなく、荒廃した土地を元に戻すため、島原藩は『作取(つくりどり。年貢免除)』という移住対策を実施。その結果、大村藩の許可もなく移住する農民(走百姓)が沢山現れた。
 ≪ 公儀百姓 ≫   幕府が各藩に移住を要請し、それに応じた農民
 ≪ 走 百 姓 ≫ 藩主の許可なく、タクスヘイブンの新天地に移動した農民
※3/18時点で1266名が移動。高力摂津領内走百姓数二付書状より

大村藩主「大村純信」は「高力」に返還を求めたが、交渉は決裂、そのため江戸幕府に申し入れを行う。

○走百姓問題を解決するため、7/16に江戸幕府は諸藩に島原天草移住令を出す。内容は、『親子5、3人もあり、移住させても田畑があれないところから百姓を移住させるように』と、天領(幕府直轄地)と九州の諸大名に対して、1万石について1戸の割りで、移住を指示する。(連署:阿部對馬守・阿部豊後守・松平伊豆守)

○9/10~11、熊本藩より184名が島原に(天草は172名)移住。引率は川尻の小崎五郎左衛門。

天領 小豆島からの移住者姓>
[加津佐村]
 酒井氏(境町)・松藤氏(八之久保)・久間氏(蓮岳)・ 宮崎氏(辻)・太田氏(越崎)・山本氏(越崎)・門畑氏(小松)・高見氏(串)

[口之津村]
 高橋氏(早崎

[北有馬村]
 八木氏 

[南有馬村]
 大崎氏(吉川)・七条氏(吉川)・ 林田氏(清水)
 ※先祖が来住の際に「くわんす(茶釜)」を持参。

小豆島以外からの移住者姓>
[加津佐村]
 山崎氏(宮之町):薩摩、 井口氏:豊前、本多氏:豊後、林田氏(西上町):延岡 有馬家臣
 江島氏:大川、安永氏(津波見):筑前北原村、白倉氏:五島、平湯氏(道原):雲仙札原、藤尾氏(蓮正寺):肥後川尻

[南有馬村]
 前田氏:薩摩、中村氏:筑後・尾張、白倉氏:五島、石田氏:肥後熊本、常岡氏:下関、江島氏:肥前大川、宮川氏:島原城下
 本多氏(岡):平戸、本多氏:豊後、溝田氏:豊後、近藤氏(高瀬木場):大村、北村氏(白木野):愛野町愛津

 (移住者により、新たな風俗・習慣・思想・生活様式が生み出される)

 

1651(慶安4)年
 ○「忠房」の尽力により、水月に『蓮正寺』が開創。

1652(承応元)年
 ○泉州成合寺の開山 雲山愚白(中興の祖)が来村し、『巌吼庵(がんくうあん)』 を創建。

1668(寛文8)年
○1656年に「忠房」の死後、息子の「高力隆長」が家を継ぐが、遊楽・重税により家断絶改易処分を受ける。

1669(寛文9)年
○丹波福知山藩主の「松平忠房」が藩主となる。

1671(寛文11)年
 ○岩戸観音造立

1706(宝永3)年
 ○六反田名山口の観音堂 宝壽庵(ほうじゅあん。巌吼庵所属)を再建

1707(宝永4)年
○「忠房」の代に命じた『島原大概様子書』が、二代「忠雄」の代に完成
・石高(加津佐村):2,601石6斗6升4合 ※高来郡内で一位
・人口:7,940人(戸数:1,918戸)
・漁師は水月名に住み、鯛、ぼら、伊勢海老、鰯、あじ、などをとった。
・六反田名には松たけ山が一箇所ある。

1760(宝暦10)年
○六反田名山口の観音堂 宝壽庵を再々建(僧 横外が庵主となる)

1762(宝暦12)年
○現在の玉泉寺山門にある『金剛力士像一対』が石切「菖蒲田 十次郎(しょんだ じゅうじろう)」によってつくられる。
※この仁王像は、観音堂 宝壽庵 境内にあったと考えらる。

1782(天明2)年
 〇「栗原富左衛門」が巌吼庵七世住職の慧兌に対し、観音堂 宝壽庵の正門石塔を寄進。

1792(寛政4)年
◆4月1日。雲仙岳大爆発。眉山(まゆやま)が破裂し、山津波(大規模な山崩れ)が発生。『島原大変肥後迷惑』と呼ばれる。死者・不明者1万5000人(肥前:1万、肥後:5千)いう、有史以来日本最大の火山災害となる。

1812(文化9)年
○旧11月16日(12月19日)。第8次測量のため、島原半島を訪れていた「伊能忠敬」一行が、加津佐村庄屋 菅 市左衛門 林田新左衛門宅に宿泊

○巌吼寺再建のための托鉢・寄進を村役人が認める。
※庄屋:菅 市左衛門・六反田名長:太田次左衛門

1817(文化14)年
○口之津加津佐方面にサトウキビの栽培が盛んに。
※1837年、穀物の生産が減少したため、栽培禁止。

1834(天保5)年
○観音堂 宝壽庵そばに、一字三礼塔が建てられた。 ※一字を書くごとに三礼をしたといういわれ。

1856(安政3)年
◆旧6月。宇左衛門火事が発生。324戸余焼失。

1858(安政5)年
◆旧8月。コレラ病流行。領内で800人程の犠牲。

1863(文久3)年
◆旧6月20日。儀平火事(加津佐大火)が発生し、300戸余焼失。

 明治以降

1868(明治元)年
○高来郡
 幕府領(長崎奉行)、佐賀藩、大村藩、島原藩

1871(M4)年
☆廃藩置県
8月29日廃藩置県   ≪肥前国≫ → ≪島原県≫
12月25日第1次府県統合 ≪島原県≫ → ≪長崎県≫

1872(M5)年
 ○前年に制定した戸籍法により、戸籍(王申戸籍)を作成。作成実務は加津佐:温泉神社宮司 植木氏が任命される(戸長は本多西男)。これを境に庄屋という役職が、名実ともに無くなる(加津佐村庄屋は菅原道根)

1875(M8)年
○平民苗字必称義務令が発令。当時、村民の大多数は苗字氏を持っておらず、村の有識者が部落ごとに名付けた(苗字の約80%は地名・移住前の地名に由来する)

1876(M9)年
○9月。佐賀県が長崎県に合併(1883年までの7年間)

○『加津佐村誌』
戸数:1,745戸 人口:8,486人(男 4,414/女 4,072)
郷社:温泉神社(水月名松原)
村社:天満神社(野田名小松)
雑社:鹿島神社(六反田名)

1877(M10)年
○西南戦争(明治政府に対し旧薩摩藩士が起こした反乱で、 国内最後の内戦)が起こり、加津佐からも軍夫として何名かが出役。

1878(M11)年
☆7月22日。郡区町村編制法制定に伴い、≪肥前国≫を構成した令制の郡であった≪高木郡(たかき)≫が分割。
≪高来郡≫
→島原半島部分 ≪南高来郡≫
→それ以外   ≪北高来郡≫

○三井物産長崎支店口之津出張所が開設。

1879(M12)年
○(大字)六反田
 (小字)上登龍・後登龍・山口・中尾・鍛冶屋敷・田端・大屋敷・蓮岳・富士山

1884(M17)年
天然痘流行

1885(M18)年
コレラ流行(M18/19/23/24/28/35/36年)

1889(M22)年
☆4月1日。町村制施行に伴い、≪南高来郡≫に ≪島原町・湊町と28の村≫が成立する。

1890(M23)年
○11月29日。大日本帝国憲法が施行。

1893(M26)年
○『南高来郡町村要覧』
戸数:1,688戸(六反田 206戸)
人口:8,867人(男 4,361/女 4,506/六反田 1,080/大地主 2
水月に600戸の漁師。口之津村に石炭積従事人夫が約100人。

1894(M27)年
○朝鮮半島の甲午農民戦争(内乱)が発端となり、大日本帝国と大清国(中国)が争う、日清戦争に発展する。

1897(M30)年
○4月2日。口之津~加津佐~茂木の『連絡船』運航(昭和17年休航)

1902(M35)年
永野仲蔵氏が私財を投じ、「私立口之津女子手芸学校」を設立。(その後、1918年「口之津村立」になり、1919年「口之津・加津佐両村組合立口加女子手芸学校口之津女子」、1930年「県立口加高等女学校」、1948年「県立口加高等学校」となる)

1904(M37)年
○日露戦争が始まる

1905(M38)年
日露戦争凱旋祝いの際に、現岩戸町外三町で『加津佐棒踊り』が披露される。(発祥)

1909(M42)年
○巌吼寺二十世住職で、再中興の祖と称される、太言 月海 大和尚が没する。

1913(T2)年
○六反田名青年会が創立。
○後登龍・上登龍にて「イワオコシ」という銘菓が製造され、広く評価を得る。

1916(T5)年
○六反田名に曹洞宗寺院で巌吼寺末寺(まつじ)として『金峯山玉泉寺』が創建。開基(寺院の創始にあたって必要な経済的支持を与えた者)は「栗原イシ」、開山は「霖玉仙」。

1918(T7)年
◆スペイン風邪が流行

 

1922(T11)年
◆12月8日。島原大地震が起こる。鳳上岳の山頂から落石があり、後登龍では三軒の家屋が崩壊した(火花を散らして落下したと言い伝えあり)

1923(T12)年
三井物産は前年の三池内港完成を受け、口之津出張所を閉鎖

 

1927(S2)年
○加津佐村の徴兵検査を小浜町光泉寺で実施(132名)。区分は甲種・第一乙種・第二乙種・丙種・丁種。

1928(S3)年
☆1月1日。「町制」施行。≪加津佐村≫ → ≪加津佐町≫

○加津佐庁舎、加津佐劇場「(竹下スエ氏。昭和44年閉館)、公民館(中村佐治介氏。昭和32年閉館)が建設される。
※加津佐劇場では主に映画(二十四の瞳など)が上映され、その他には大衆演劇や歌謡ショーなどが開催される。

1931(S6)年
○9月18日。満州事変が起こる。

1933(S8)年
○7月、前浜に県営海水浴場が開設。上海方面から多数の観光客が来る。
(7~8月末までで、町内宿泊者の延べ人数が9,146名)

1937(S12)年
○盧溝橋事件が起こり、予備役の在郷軍人の招集が始まる。また、併せて充員召集が始まる
(9/14には六反田から十数名が出征した)。

1941(S16)年
○太平洋戦争が始まる

1942(S17)年
○3月に「加津佐町翼賛壮年団(大政翼賛会の傘下団体)」が結成。

○4月に各婦人会を解消し「大日本婦人会加津佐支部」が結成。

1944(S19)年
○8月10日の夜。初めて加津佐上空に米機を確認。

○11月22日。女島沖海中に爆弾三個を投下

1945(S20)年
○6月。翼賛壮年団を解散。加津佐町国民義勇隊が設置。

○6月29日。前浜に停泊中の軍用船を機銃掃射され、死者6名・重軽傷者14名の被害がでる。

○7月10日。岩戸山で軍事施設工事が開始。

○8月9日。長崎市に原子爆弾(ファットマン)が投下。当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。

 戦後

1946(S21)年
○11月3日、新憲法発布。第二次農地改革法が可決し、翌年より農地の買収・譲渡が開始する。

1953(S28)年
○津波見名 安永安次旧宅跡の大蘇鉄を県庁舎前庭に移植。

1956(S31)年
○加津佐町4Hクラブ結成。

1961(S36)年
○乳ヶ浦遊園地が開設。

1962(S37)年
○柑橘の栽培が盛んとなる。

1965(S40)年
○老人クラブが山口、後登龍、上登龍に設立される。

1977(S52)年
青年団によって郷土芸能「棒踊り」が復活

1980(S55)年
○第13回国勢調査の結果(加津佐町)
世帯数:2,636世帯 人口:10,152人(男:4,885 女:5,267)

1983(S58)年
○六反田地区老人会が「六反田生活史」をまとめる。

1984(S59)年
○簡易水道(水源:中原溜池)が完成。県内初の取水船方式ポンプアップが採用される。※それまでは井戸水・天水に頼っていた。

1986(S61)年
○加津佐走ろう会がリレー形式で島原半島一周を走破(3回目)。

 

1991(H03)年
◆6月3日。雲仙普賢岳噴火に伴う、大火砕流発生。43名の死者/行方不明者(報道関係者20名、消防団12名)と、9名の負傷者を出す大惨事となる。

2006(H18)年
☆3月末。合併特例法に伴い、口之津・南有馬・北有馬・西有家・有家・布津・深江と合併。【平成の大合併】

2008(H20)年
○3月末。島原鉄道の南線(島原外港 - 加津佐間)廃止。

歴代加津佐村 庄屋・村長・加津佐町長

[庄屋]

松田 新兵衛 【初代】

菅 市左衛門 【二代】(湯江村より)

菅 道根 【七代/最後】(姓を菅原に改める)

 

[村長]

天本 吉郎太 【初代】
1889~1907
※俸給は名誉のため無給と定められた。
※北有馬村の庄屋飛永氏の二男。16歳の時に天本家の養子となる。31歳で加津佐村西部戸長。その後、三部合併戸長に。
※郡会議員(議長)も務めた。
※墓碑の文字は、生前親交の厚かった林薫(ただす)外務大臣[西園寺内閣]の筆。

栗原 一角(イッカク)【二代】
1907(1)、’11(2)、’15~16/10/4(3)<死去>

相良 鹿間(シカマ)【三代】
1916/11/2~’18/10/8<辞任>

林田 喜代造【四代】
1919/1/6~’23/1/5<辞任>

林田 祥一郎【五代】
1923/2/5(初)、’27(二)※1928/1/1の町制施行にともない、初代町長に。

 

[町長]

小柳 二雄(ツギオ)【二代】
1931/6/25~’34/5/10<辞任> ※辞任後、栗原大島太郎氏が町長臨時代理に。

栗原 大島太郎 【三代】
1935/1/6~12/13<辞任>

松本 二三(フツミ)【四代】
1936/10/14~’37/6/3<辞任>

近藤 要輔(ヨウスケ)【五代】
1937/9/28~’39/2/15<辞任>

山口 牛六(ギュウロク)【六代】
1939/6/24(1)、’43(2)

小柳 二雄【七代】
1946/1/14~10/31<辞任>※辞任後は助役平湯至が町長臨時代理に。また、小柳氏は町長のほか、県会議員六期(副議長を含む)を勤める。

栗原 大島太郎【八代】
1947/4/5(1)、’51/4/5(2)、’55/4(3)、’59/4(4)※県会議員三期(副議長を含む)と衆議院議員も勤める。

宮崎 成一(セイイチ)【九代】
1963/5/1(1)、’67/4/25(2)、’71/4/25(3)、 ’75/4/27(4)、’79/4/16(5)、’83(6)、’87~’91(7)

松代 一昌(カズマサ)【十代】
1991~’95

元山 芳晴(ヨシハル)【十一代】
1995(1)、’99(2)、2003~’06/3/31(3、無)
→南島原市になり、【副市長】2006/4/1~’10


〔参考文献〕

・加津佐郷土史 加津佐史話(林田 第壹號 著)

・加津佐 ふるさと史跡めぐり(福田 八郎 監修)

・六反田生活史(加津佐農業改良普及所 発行)

・口之津町史 郷土の歩み(白石 正秀 著)

・南有馬町郷土史

・図説 島原半島の歴史(松尾 卓次 監修)

・巌吼庵 御願書如扣(福田 八郎 編)

島原の乱雑記(坂口 安吾 著)